それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論(ビジネスジャーナル2018.07.18より転載)

それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論(ビジネスジャーナル2018.07.18より転載)

この記事は、ビジネスジャーナル 2018.07.18に掲載された、本会呼びかけ人森達也の記事「それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論」を、BJ様許可の元転載させていただいたものです。

それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論

(文=森達也/作家・映画監督・明治大学特任教授、「オウム事件真相究明の会」呼びかけ人)

 人は同じ景色を見ても違うことを考える。ニーチェは「事実はない。あるのは解釈だけだ」という言葉を残したが、それは情報の本質だ。コップは上や下から見れば円だけど、横から見れば長方形だ。さらに現実に起きる事件や事象は、コップのように単純な形ではない。多面的で多重的で多層的だ。だからこそその形は、視点によってくるくる変わる。

……情報に接しながら、僕はいつもそう考えている。メディアが提供するすべての情報は、記者やディレクターやカメラマンなど誰かの視点(バイアス)を介在している。人は見たいものを見て聞きたいものを聞く。それは僕も同様だ。撮影しながらフレームで状況を恣意的に切り取る、そして編集で取捨選択する。それがドキュメンタリーだ。客観的な事実などと口が裂けても言わない。言えるはずがない。作品として提示できるのは主観的な真実だ。事実など撮れない。人によって違うのだ。でも多くの人は、誰かが見たり聞いたりしてフィルタリングした情報を、たったひとつの真実とか客観的な事実だなどと思い込む。

ジャーナリストの定義をひとつあげれば、自分が提供する情報に対しての負い目を常に持つことだと僕は思っている。だってそれは客観的な真実では決してない。主観的な真実なのだ。その負い目を抱えながら主張する。後ろめたさを引きずりながら記事を書く。歯を食いしばりながら撮影する。ジレンマだ。引き裂かれる。でも目を背けないこと。楽な道を選ばないこと。周囲に迎合して自分の主観を抑え込んだり裏切ったりしないこと。

僕は映像や文章に依拠する表現行為従事者だ。ジャーナリストではないが、負い目や後ろめたさはいつも抱えている。だからこれまで、自分と違う意見に対して、「嘘だ」とか「デマだ」などと全否定したことは(よほどでないかぎり)ないはずだ。真実と虚偽は簡単に区分けできない。グラデーションがある。木々の葉は緑一色ではない。幹も茶色一色ではない。いろんな色が混在している。混じり合っている。そのグレイゾーンが世界だ。

でもオウム真理教関連、特に麻原彰晃が関わる領域では、この多面的な認識が消えて1かゼロ、正義か悪、黒か白的なダイコトミーがとても強く発動する。オウムは絶対的な悪。ならばそれに対峙する自分は絶対的な正義。これが座標軸になるからだろうか。だからこそ自分と違う意見を100%否定したくなる。デマだとか嘘だなどと罵倒したくなる。そんな人がとても多い。

そもそも議論は苦手だ。事実は視点によって変わるという意識を持っているからこそ、自分と異なる視点を全否定することにためらいがある。なるほどこの人にはそのように見えるのか、と思ってしまう。でもコップについて、4つのタイヤがあって道路を走っていたとか掃除のときに使う道具であるなどともしも断定されたなら、さすがにそれは違うと声をあげねばならない。だってまさしくオウムは、戦後日本で起きた最大の事件であり、同時代に生きる僕たちはこの事件の内実を後世に語り継ぐ主体なのだから。

6月13日、「「真相究明」「再発防止」を掲げる「オウム事件真相究明の会」への大いなる違和感」とのタイトルで江川紹子氏が記事をアップした。

この論考の始まりで江川氏は、

著名な文化人らがうちそろって、彼女の主張を代弁するような活動を始めたと聞けば、やはり座視できない。ましてや、複数のジャーナリストが、その呼びかけ人や賛同人となり、事実をないがしろにした発信をしているとなると、さすがに黙っているわけにはいかない。

と記述している。さらに真相究明の会の主張について江川氏は、

(1)麻原が内心を語っていないので「真相」は明らかになっていない
(2)麻原が真相を語らなかった理由は、精神に変調をきたしたから
(3)控訴審で事実の審理を行わずに控訴棄却とした裁判所が悪い
(4)「治療」して麻原に「真相」を語らせよう

というものだ。麻原の三女が言ってきたこととまったく同じで、呼びかけ人は主張が一致することも認めている。

と書いているが、この(1)から(4)は、僕が(書籍『A3』(集英社)を含めて)ずっと麻原法廷について主張してきたこととほぼ重複する(「裁判所が悪い」などナイーブすぎる表現はしていないと思うが)。僕自身の麻原法廷への関心の始まりは2004年2月27日だ。麻原一審判決公判を傍聴して被告の状態に衝撃を受け、その後に月刊プレイボーイで麻原法廷への違和感を同時進行的に取材しながら連載し、連載が終わってから数年間の推敲と新たな取材要素を加筆したり削ったりして、2010年に単行本『A3』として刊行した。

連載時には三女と何度か接触したが、その後はずっと距離があった。彼女が『止まった時計』(講談社)を発表したときも、まったく連絡はとっていない。それが今、「彼女の主張を代弁するような活動」「麻原の三女が言ってきたこととまったく同じ」と言われても困惑するばかりだ。僕だけではなく真相究明の会に賛同した誰一人、三女を代弁する必要も義理もない。一致したことが不自然であり三女に同調したのだろうとのニュアンスで江川氏は書いているが、あえて書くならば、僕が言ってきたことと麻原三女、そして会に賛同した多くの人たちが、処刑間近になったこの時期に、できることなら麻原を治療して裁判をやり直すべきだとの視点で一致した(もちろん大前提としてオウムに対するスタンスや思想は様々だ)ということだ。

次の論旨で江川氏は、

 「真相究明の会」呼びかけ人の森達也氏は、「地下鉄サリン事件当時は“オウム絶頂期”であり、サリンをまく動機がわからない」と述べているが、とんでもない。少しは判決文を読んだり、当時のメディアを調べるなどして、当時の教団の差し迫った状況を知ってから語っていただきたいものだ。

麻原を裁く裁判も、事実を解明するために相当の時間と経費を費やしている。一審では、初公判から判決まで7年10カ月をかけ、257回の公判を開き、事実の解明が行われた。呼んだ証人は述べ522人。1258時間の尋問時間のうち、1052時間を弁護側が占めていた。検察側証人に対しては詳細な反対尋問が行われていたことが、この数字からもわかるだろう。麻原には、特別に12人もの国選弁護人がつけられ、その弁護費用は4億5200万円だった。

名指しされた当人としては、「語っていただきたいものだ」

の趣旨がよくわからないと書くしかない。これだけの時間と経費がかけられた裁判なのだから、異論を言うべきではないとの意見なのだろうか。「少しは判決文を読んだり」

と読んでいないことを前提として江川氏は書いているが、判決文は何度も読んでいる。当り前だ。判決文も読まずして裁判を批判する本を発表するような度胸は僕にはない。ところが江川氏だけではなく僕を批判する人たちの多くは、「森は判決文すら読んでいない」と頻繁に断定する。彼らにはコップが長方形に見えた。でも視点が違う僕には、丸や三角も見えた。ところが彼らは、自分たちに丸や三角は見えないからこれはデマだ→森はコップを見たと嘘をついた、と論理を短絡する。このパターンはとても多い。

2011年、TBSラジオの企画で麻原死刑判決確定は妥当か否かをテーマに、僕は江川氏と対談した。そしてこの番組の中で江川氏は、麻原は訴訟能力を保持していると高裁が判断する根拠にした西山鑑定書を、自分は読んでいないと発言した。
【参考:YouTube:オウム裁判 江川紹子 vs 森達也】

読むべき裁判資料を読んでからものを言え、と主張するのなら(それは一面的には正しい)、僕は同じ言葉を江川氏に返す。麻原の訴訟能力に問題はない(つまり詐病なのだ)と断言するのなら、せめて精神鑑定書くらいは目を通すべきではないのか(しかもこの時点で確定から何年も経っている)。それなりのボリュームではあるけれど、裁判関連資料に比べれば大した量ではない。正式な鑑定の条件を満たさないままに(つまり宮台真司の言葉を借りればモドキ鑑定)行われた西山詮医師の鑑定がいかに主観的で結論ありきであったかについて、ここで少しだけ触れておきたい。例えば(麻原の)失禁について西山医師は、

「なお、『失禁』という言葉には既に病的評価が付着している。起こったことを虚心に見れば、それは大小便の垂れ流しである。この行為は必ずしも脳疾患の症状ではなく、又、必ずしも重い心因反応の症状でなければならないものでもない。それはいざとなれば健康な人の誰もができることである(鑑定書61ページ)」

と記述している。「虚心に見れば大小便の垂れ流しである」とはどういうことだろう。「いざとなれば健康な人の誰もができること」だから異常ではないと言いたいのだろうか。「いざとなればできること」ではあっても、その「いざとなれば」のハードルが際立って低いときに、人は正常な意識状態ではないと見なされるのだ。いざとなれば誰もができることの論理を援用すれば、精神の病など存在しなくなる。

要するに詐病であることを西山医師は前提にしている。でもそれでは鑑定ではない。詐病であるかどうかを含めて鑑定すべきなのだ。意志の発動については、以下のような記述もある。

「被告人が車椅子に戻って座り、右手を軽く丸める形にして右膝の上に置いていたので、その拇指(ぼし)と人差し指の間に鑑定人が鉛筆を黙って置いたところ、3本の指が微妙に動いて鉛筆を把持(はじ)し、更には鉛筆の中ほどを3本の指で持って、くるくるとプロペラ様に振ってみせた。(中略)鉛筆を取り戻そうとすると、被告人は右手で強く握って離さない。鑑定人が引っ張ると、被告人はいよいよ硬く握り締める。(中略)以上の検査から判明したことは、意志発動が可能で、鉛筆を握って離さないことも、これを離すこともできるということである。逆に言えば、握る能力はあるのに握らないことがあるということである(66ページ)」

鉛筆を握ったり握らなかったりしたから、意志発動は可能である(訴訟の当事者となるだけの能力を保持している)ことが証明された。要約すればそういうことになる。ならば乳幼児やアライグマにも訴訟能力はある。ラッコだって被告席に座れるはずだ。

こうした空疎なレトリックの積み重ねで、麻原は訴訟能力を失っていないと鑑定は結論付けた。これを根拠に麻原法廷は一審だけで打ち切られた。その理由を江川氏は、以下のように記述する。

控訴審で公判が開かれずに一審での死刑判決が確定したのは、弁護人が提出すべき控訴趣意書を提出しなかったためである。

確かに提出すべき控訴趣意書を提出しなかった

ことはきっかけだ。でも2006年3月21日、一週間後の3月28日に控訴趣意書を提出することで裁判所と合意したことを、弁護団は公表した。このままでは控訴棄却されるからやむをえないとの判断だ。被告人と意思の疎通が図れないので控訴趣意書を書けない(だから治療したうえで裁判を進めてほしい)と主張してきた弁護団としては、これは敗北宣言に等しい。

ところが東京高裁(須田賢裁判長)は、約束した期限の前日である3月27日に、いきなり控訴棄却を決定した。この時期に僕は月刊プレイボーイで、『A3』の元になる記事を連載していた。そのときの記述を以下に引用する。文中の澤は、一審判決公判を傍聴したときの担当である共同通信社会部記者の澤康臣だ。

その澤から、弁護団が控訴趣意書を出すと予告した日の前日に電話がかかってきた。何があったのだろう? 麻原彰晃の裁判がらみの用件だろうと推測はできるけれど、それ以上はわからない。携帯を耳に当てながら胸の底が微かにざわつく。「森さん、まだご存じないですよね」と前置きしてから、澤は冷静な口調で言った。

「今日、高裁が控訴棄却を決定しました」

衝撃が強すぎて何も反応できなくなった状態を形容して、「頭の中が白くなる」との慣用句がある。あまり好きな表現じゃない。たぶんこれまで、僕はこの慣用句を使ったことはないと思う。でもこのときは、まさしく頭の中が白くなった。返事ができなかった。

「それで、前にもお願いしましたが、明日の朝刊用にコメントを頂けますか?」

「……はい。でもちょっと待って。なぜ裁判所は棄却を決めたのですか?」

「弁護団が控訴趣意書を提出しなかったから、との見解のようです」

「でも明日、控訴趣意書を裁判所に提出すると弁護団は公表していましたよね」

「はい」

「それなのに、なぜよりによってその前日に、裁判所は棄却を決定するのですか?」

「わかりません」

「おかしいでしょ?」

「……おかしいです」

3月28日まで待つことを裁判所は弁護団に約束していた。これはちゃんと記録が残っている。ところが3月27日に、裁判所はいきなり棄却を決定した。よりによって前日だ。この経緯について、僕は「騙し討ち」以外の言葉を思いつけない。

とにかく江川氏の「それでも期日までに提出がなされず、控訴棄却となったのだ」

は、実際の経緯とは決定的に違う。高裁がもし弁護団との約束を守って3月28日まで待てば、控訴趣意書は提出され、二審は行われたはずだ(ただし被告人と弁護団が意思の疎通ができないままの異例な法廷になったとは思うが)。

さらに江川氏は、以下のように会の趣旨を批判する。

彼らが、「治療」によって麻原が自発的に真実をしゃべると本気で考えているとしたら、オウム真理教やこの男の人間性について、あまりにも無知と言わざるをえない。

他者の内面や人間性について、これほど強硬に断定できる自信は僕にはない。人は複雑な存在だ。多面的で多重的で多層的だ。単細胞生物でもなければ物理現象とも違う。自分自身ですらよくわからないのだ。

ただ確かに、治療によって回復する可能性は相当に低いだろうと僕も思う。二審弁護団の依頼で麻原に接見した7人の精神科医の多くは、拘禁障害であれば適切な治療や環境を変えることで劇的に回復する場合があると診断したが、それから10年以上も放置されているのだ。決して楽観的には考えていない。

でも刑事裁判の基本はデュープロセス(適正手続き)だ。「たぶん治らない」「麻原は自発的に真実をしゃべるような男ではない」これはどちらも予測だ。可能性の濃淡を理由に手続きを省略すべきではない。それは近代司 法の大原則だ。

仮に断片的であったとしても言葉が発せられるなら、それは事件を理解するうえで大きな補助線になる可能性はある。ナチス最後の戦犯と呼ばれたアドルフ・アイヒマンは、自らの法廷でホロコーストに加担した理由を「命令に従っただけ」としか答えなかった。それは世界が期待した証言ではない。アイヒマンは法廷で、「自発的に真実を」語ったわけでもない。しかしこのとき傍聴席にいたハンナ・アレントは、この証言をキーワードに「凡庸な悪」という概念を想起した。そしてアレントのアイヒマンに対する考察と示唆は、特定の集団を世界から抹殺するというあまりに理不尽で凶悪なナチスの負の情熱を解明するうえで、ひとつの(そして極めて重要な)補助線として歴史に残されている。

自らの法廷でも、忠誠を誓っていたはずの井上嘉浩元幹部までが目前で「教祖の指示」を語る事態になった。相当に焦ったに違いない。第13回公判、井上証人への弁護人反対尋問中に、麻原は裁判長に対し尋問の中止を要求。「これは被告人の権利です」とも言った。
しかし弁護人は結局、尋問を続行した。「教祖の指示」を語る井上証言は揺らがなかった。

麻原にしてみれば、耳に入れたくない弟子たちの証言をやめさせようとしたのに、裁判所は受け入れず、弁護人も自分に従わず、不愉快な状況が続くことになったのである。これを契機に、麻原は弁護人に対して拒絶的になり、法廷でも不規則発言をくり返して審理を妨害しようとするようになる。

江川氏のこの記述を読んだ人の多くは、麻原とは何と卑劣な男だと思うのだろう。しかし彼女が例に挙げた第13回公判については、事実関係はまったく逆だ。井上証人への弁護人反対尋問とは、その前に井上が証言したリムジン謀議に対しての、麻原弁護団による反対尋問だった。つまり麻原にとって、尋問の中止を要求することの利はまったくない。むしろ自分の立場がより不利になるのだ。ところが尋問中止を麻原は要求した。「不愉快な状況」を自ら選択した。これについては、ジャーナリストである魚住昭のブログ(http://uonome.jp/read/1362)も参照してほしい。

補足するが、僕はこれを麻原の高潔な判断とは思っていない。宗教的高揚と精神の混濁が融合したゆえの判断だと思っている。

ところが、この「真相究明の会」は、麻原の死刑回避ばかりを求め、元弟子たちの処遇には関心を寄せない。そんな人たちが言う「再発防止」とは何なのだろう。

麻原の死刑回避は会の最終的な目的ではない。処刑の前にやるべきことをやろうとの趣旨だ。その一点で多くの人が賛同したのだ(その後に処刑すべきと考えている人も会には複数いる)。

3人以外にこれから執行を迎えるはずの3人、つまり死刑判決を受けた6人の元信者に僕は面会した。手紙のやりとりを続けた。事件について質問し、彼らは悩み、一緒に考えた。時には視点が食い違った。議論した。でもひとつだけ言えること。邪悪で冷酷だから人を殺したわけではない。洗脳されて自分の感情や理性を失っていたからサリンを散布したわけでもない。組織に帰属すること。組織に従属して個を捨てること。それによって凡庸な悪は発動する(オウムの場合は、死と生を倒置する信仰のリスクもここに重なった)。
その意味でオウムの事件はホロコーストと同様に、あるいは多くの虐殺や戦争と同様に、集団に帰属して生きることを選択したホモ・サピエンスが遺伝子的に内在する大きなリスクをくっきりと提示した事件であり、宗教が持つ本質的な危うさを明確に露呈した事件でもあった。でも結果として、この社会は事件の解釈を間違えた。いや解釈を拒絶した。そして司法とメディアは社会に従属した。僕はそう思っている。

ヒトラーはベルリン陥落とともに自害した。実のところ、彼がホロコーストを指示した証拠はない。ニュルンベルク裁判に当たって連合国側は必死にヒトラーの実務的な関与を示す文書を探したが、結局は発見できなかった。だからといってヒトラーがホロコーストと無関係とは誰も思わない。残された彼の言葉や文章には、明らかにユダヤ人蔑視の思想が現れている。

法廷におけるアイヒマンの証言は、600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストを解明するうえで、今も重要な補助線になっている。人は邪悪で狂暴だから悪事をなすのではない。集団の一部になって個の思考や煩悶を停めたとき、壮大な悪事をなす場合があるのだ。これに気づいたとき、惨劇や事件は歴史的教訓の骨格を獲得し、発生時に喧伝された特異性だけではなく、後世に残る普遍性を示すことができる。それは誰のためか。オウムや麻原のためではない。僕たちのためだ。

ただし補助線は補助線だ。本線ではない。もしもヒトラーが自害していなければ、法廷でその証言を聞けたはずだ。いわばそれが本線だ。しかし現実にはニュルンベルク裁判は、ヒトラー不在のままで進められた。最後のとどめを刺しきれなかった。だからこそ今もネオナチやヒトラー崇拝的な思想は世界に燻り続け、ホロコーストやナチズムに対して歴史修正的な史観が亡霊のように立ち現れる。

でも麻原は生きていた。ならば治療して語らせるべきだった。大量殺戮の指示をあなたは本当に下したのか。もし指示を下したのならその動機は何か。日本を征服するなどと本気で考えていたのか。あるいは言葉の食い違いがあったのか。あなたの直接的な指示を聞いたのは刺殺された村井幹部だけだ。彼にあなたはどのように伝えたのか。被害者や遺族に対しての言葉はないのか。一緒に処刑される弟子たちに対して今は何を思うのか。こんな事件さえ起こしていなければ、あなたは今も教祖でいられたはずだ。オウムが壊滅することをなぜ想定しなかったのか。あるいは(処刑された中川死刑囚が僕に教えてくれたように)むしろオウムを壊滅させようとしたのか。だとしたらその理由は何か。動機は何か。オウム以降にセキュリティ意識を過剰に発動して集団化を加速させた日本社会について、今はどのように思っているのか。

……訊きたいことはいくらでもある。徹底して追い詰めるべきだった。語らせるべきだった。晒すべきだった。宗教的にきわめてストイックだったことは認める。でも最終解脱などありえない。言い逃れるなら論破すればいい。答えに窮して立ち尽くす姿を晒すだけでも意味がある。
今になって麻原を崇拝していることを理由に後継団体についての危惧を口にするのなら、遺骨はどうすべきとか聖地化されるなどと不安視するのなら、意識を取り戻した麻原を徹底的に追い詰めて、公開の場でとどめを刺すべきだったのだ。

何よりも、心神喪失の状態にある人は処刑できない。それは近代司法国家としては最低限のルールのはずだ。

僕はオウムについて、施設内に入って長く映画を撮ったことで、多くの人とは違う視点をたまたま得た。だからこそ見えたことがある。気づいたことがある。だから必死に訴えた。でも届かなかった。叶わなかった。最後にもう一度書く。語らせるべきだった。でもすべて終わった。今はただ茫然としている。本当に悔しい。本当につらい。

でも同時に思う。二つの眼球を失って闇の中で心神が崩壊したまま誰とも話さずに10年以上も大小便垂れ流しのまま放置され続けた麻原にとって、この処刑は最後の救いだったのかもしれないと。

(文=森達也/作家・映画監督・明治大学特任教授、「オウム事件真相究明の会」呼びかけ人)